かつて県庁が置かれた石川県発祥の地である美川は霊峰白山から下る手取川の河口に位置し、北前船の寄港地としても栄えた。手取川から流れた土砂は40キロ先の千里浜にまで及び、長い砂浜区間を形成している。一般的な砂よりきめ細かく、海水を吸い固く締まることで自動車も通れるなぎさドライブウェイは観光地として有名だが、羽咋高校生だった私には毎秋のマラソン大会で走らされた思い出しか無い。あの時は全く面白くなかった長距離走に進んで参加するようになってしまったのは、成長といえばいいのか鈍化というのが正しいのか。

 一説には、アイヌ語で岬を意味する「not」からきていると言われている「能登の国」。
 その全域を占める日本海に突き出た能登半島の海岸線は、極めて美しく、かつ大自然のエネルギーを感じさせる雄大な景観を呈しており、誰をも魅了する。そして、「能登はやさしや土までも」と古くから言われているように、能登の人の情は素朴で温かい。
 そんな魅力あふれる能登の国が大地震に見舞われて甚大な損害を被り、特に被害が大きかった地域は、復旧、復興に非常に長い時間を要するようです。私たちは復興に少しでも貢献するために、能登の国をめぐるジャーニーランを引き続き開催します。

 LAKE BIWA100の抽選に落ちて目標が遠くなってしまった最中、能登の国ジャーニーランの存在を知った。開催日もちょうど都合のいい10月第1週で、能登出身の自分にとっては非常に馴染み深い場所ばかりを辿るコースに惹かれた。思えばあの地震以来実家より北には行っていないし、峨山道トレランの聖地である(いやもっと大切な意味を持つ)総持寺祖院にも顔を出したいと思い、申し込んだ。

 レース当日。受付を済ませて荷物を準備しているうちに開会式が始まってしまう。5分遅れで会場IN。100キロ超のウルトラマラソン群で構成される『ジャーニーラン』は独自の規格が成立していて、ルールもしっかり理解していかなければならない。事前にマニュアルは読んでいたものの、見落としやら装備忘れなんかもちらほらあって、この辺りは徹底せねばと反省する。特に今回、雨具上にポンチョを用意していたが、「ゼッケンが必ず見えるように」と言われてしまうとちょっと使いづらい。つけ直せばいいだけではあるのだが、晴れたり止んだりを繰り返す場合はあまりに煩雑だ。結局今回使う機会は無かったものの、今後の課題として考えておこう。

 13時、道の駅から旅は始まる。千里浜を1キロほど走ってから海浜自転車道へ。この辺りの面白みといえば海岸線の遷移だ。千里浜まではその名の通り砂浜が続くものの、滝マリーナを境に大きな丸石が海面から顔を出すエリアが始まる。それが柴垣や大島の砂浜と交互に現れながら、高浜の海岸を抜けると能登金剛らしい岩肌(と海洋ごみ)に移る。調子よく写真なんかを撮りながらジャーニーを楽しんでいるものの、腕時計の示す心拍数は170越え。キロ6分台で平地を走っているだけなのだが、やはり緊張しているのだろうか。さすがにそろそろ体も慣れてほしいものだ。

 志賀町の名の由来にはいくつか説はあるものの、私は「石(いし)の処」を意味する「シカ」から来たと思っている。類似県名である滋賀県でのレファレンス<URL>を参考にしたのだが、非常にしっくり来る答えだと思う。越前側から半島を海沿いに上ると、東尋坊を代表としたゴツゴツした岩肌が続き、上述の通り手取川を境に約40キロの砂浜区間が続く。砂浜区間が岩肌に代わるのが羽咋市滝地区のあたりで、そのすぐ隣から志賀町が始まるからだ。この先の海沿いが「志加浦」と呼ぶ校区なのはこの説にずっぽしハマる。「石処」→「志加浦」→「志賀町」という名前の流れが見える。

 志賀町区間はまさにこの志加浦の海沿いを走る。すぐ近くに新しく移り住んだ実家があり、原発を過ぎた先は昔の実家に住んでいたころのジョギングコースだ。陽気に話しかけてくるおっちゃんのペースに乗せられてしまいキロ5分代。さすがにこれはバテると巌門手前で離脱するも、このあたりから歩きが混じるようになってしまう。スタートから霧のような小雨が断続的に繰り返される。日差しに照り焼かれるよりかは全然良いものの、足裏にトゲトゲした小さな違和感を感じ始めた。どうせひどいタテジワになるんだろうなと覚悟はしつつも、未だ解決策は見いだせていない。巌門のエイドではうどん1杯、金沢っぽい塩味強みのカレー2杯を食す。これが旨いんだ。食べ過ぎて胃の重みを感じながら次に進む。

 巌門を経て富来の増穂浦海岸。ここの砂は何処から来ているのだろう? 2022年8月に手取川・梯川水系が豪雨に襲われた時は数日後にはここまで流木や漂流ごみが押し寄せているのを見たが、そういう海流があるのかもしれない。というか、西海地区の突き出た鼻のような岬が潮の流れを止めてるんだろうな。。。2024年1月1日地震の時、両親はこの辺りに居たらしい。総持寺参りの帰り道で、逃れようのない海沿いの道。しばらく津波の恐怖に耐えていたと聞いた。(父は写真を撮りに行こうとして怒られていたらしい)

 富来の道の駅で歯磨きをして気分をリフレッシュする。もともとは近くのドラッグストアで後半戦の補給をする予定だったものの、この大会はエイドの食事が充実していて消費がほとんど無い。ゼリー飲料1つを序盤に使ったものの、スタート時から背負っているその他菓子パンには全く手を付けていない。今後もエイドで色々食べられるだろうし、時間がもったいないので先に進むことにした。

 西海漁港で日が暮れて夜間走行が始まる。この辺りからひどい尿意に苦しむことになる。トイレに依るものの全く出ず、けれども数分後には再び我慢できないほどの尿意を感じるというループ。初めての経験で何がおかしいのかを考えてみて、多分水分が足りていないのだろうと思い当たる。結構摂取してはいるものの、雨と気温の低さで補給量が足りていない可能性に思い当たり、若干のロスト後に辿り着いた西浦エイドで薄いスポーツドリンクをガブ飲み。循環による回復を待った。

 しばらくすると体調が直り始めて、走るペースが戻ってくる。足にダメージはほとんど溜まっておらず、尿意問題さえ解決してしまえば軽いジョギングは意識せずに続けられる。ヤセの断崖を過ぎると門前天領黒島地区。黒瓦の屋根が美しい重要伝統的建造物群保存地区だ。KagaSpa100Kを経て何故か瓦や屋根に煩くなってしまった自分にとっては実に興味深い。が、夜が暗くてあんまり見えない。靴紐を結び直そうとすると腹筋が攣る。水の飲み過ぎで今度は塩分バランスが狂ったか。初めての奥信濃ではリタイヤの原因になったこの痙攣問題も、能登塩を常備するようになって全く怖くなくなっている。

 赤神の道の駅、道下サンセットパークを経て川沿いに総持寺を目指す。途中の私設エイドで30位くらいにいると教えられて、ちょっとタイムを意識し始める。門前の総持寺は、今は横浜にある大本山の祖院にあたる。峨山道でもお馴染みで、観光で来たことは無いものの周辺の雰囲気には懐かしい感じがする。ここのエイドは素麺が美味しくて3杯も頂いた。汁を多めに貰って塩分も補給。美味しいカレーも1杯だけ食べる。

 灯篭が崩れたままの寺の前を通り、門前町の中をしばらく進んでから山越え区間に分け入る。ここは自転車旅でも通ったことのない唯一の未踏区間で、雨が強くなる中気を引き締める。ポンチョはゼッケンを隠してしまうという理由で、念のため持っていた折り畳み傘を差しながら走ることにした。何かの抽選でもらったMont-bellの傘はとても軽くて差しながらでも走れるのが良い。調子良く進んで途中二人ほどかわし、以降10キロ近く孤独な道のりになった。

 穴水町はロードバイクで半島一周の際に何度か通ったことはあるものの、通過するのは大抵徹夜後の早朝なのであまり思い出が無い。駅前は綺麗に舗装されているものの水はけがあまり良くなさそうで、ぱっと見綺麗ではあるものの突貫で復旧させた感が否めない。水たまりに突っ込んで足をひどく濡らしてしまう。ちょうど深夜零時にエイドに到着。ここの目玉はおでんで、玉子もリクエストさせてもらえた。少し離れたベンチに座っていると、いい匂いに惹かれた黒猫が横取りを狙っている。熱々を冷ます間に濡れた靴下を交換。インソールの水気も絞ってなるべく足を乾かす。すでにシワがひどく左足にはタテスジ状にマメが出来ている。もともと七尾で交換する予定だったが、痛みの強さからここでの交換となる。もう一足持ってきておけばよかった。

 穴水大宮とも呼ばれる辺津比咩神社は宗像三女神を祀る神社である。

宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。(Wikipedia)

 「道の神」に旅の加護を祈って、ここからが旅の後半戦だ。最も眠くなる区間こそお耳のお供はJUNKのタイムフリー。ペースは上がらないけど眠気は抑えられる。穴水から先は七尾湾沿いを下る。湾の中央に構える能登島が防波堤の役割を果たし、穏やかな湾岸が続くエリアだ。遥か遠くに中島大橋が見える。靴下交換が奏功して足の痛みは若干抑えられたものの、今度は股ズレの痛みが激しくなってくる。門前エイドでクリームを塗ってはいたものの乾かす時間はしっかり取れていない。これは皮膚と皮膚の摩擦ではなくて、パンツの縫い目が当たっているのだとようやくここで気付き、何処かでパンツも交換せねばと思いながらもトイレを見つけられず、痛みを引きずりながら走るはめになってしまった。走りは歩きに変わり、持参した薄皮パンをつまみながらとぼとぼ進む。この区間では結構抜かされた。途中カフェイン錠剤を使ったものの眠気で頭はぼうっとしていて、中島で道の駅を通ったにもかかわらず、ここで休むことを思いつかないという痛恨のミスをしてしまう。

 ちょうど100キロの地点には中島市街地のファミマがある。多くの選手がこの辺りで一息つく中、とにかく先に進みたくて単独走を続ける。中島より南はほぼ完全に陸地で囲まれた区域で、能登万葉の里マラソンのコースと重なる。マラソンでは歩道を走っていたはずだが歩道が見当たらず、よくよく見るとツタに完全に覆われて見えなくなっていた。これではまだ来年の大会再開は難しいかもしれない。後続のランナーがペースを上げて迫ってきたので、こちらも負けじと走るうちに和倉区間に入る。温泉街の直前に前のランナーに追いつく。だいぶ消耗している感じだ。マメが潰れた痛みでもう走れないという。本来労いの言葉をかけるべきだが頭が全然回らなくて、とにかく頑張ろうと言うことしか出来ない。後ろめたさを感じながらも能登島エイドを目指した。

 和倉温泉を代表する旅館ホテルは公費解体を決断し、大きな建物には足場が組まれていた。地震からもうすぐ2年。ブルーシートの屋根はだいぶ少なくなり、壊れた建物が目に留まることもそれほど無かった。それでも、やたら綺麗な更地や綺麗だけど凸凹した道路の舗装。傷跡はまだそこかしこに残っている。だからと言って呆然としている暇なんてなくて、再び一歩をいかに早く踏み出せるかということ。どんな形だろうと、そんな一歩を応援できればいいと思った。和倉からほど近くの能登島エイド。やっぱり美味しいカレーをたらふく食べて大橋のCP往復。曇り空で日の出は見えないけれど、ちょうどここで夜が明け、重いヘッドライトを外した。

 田鶴浜の狭い歩道を抜けて西湊の新市街地を抜け、小丸山公園から妹の働くレストランを横目に昔の職場横を通過。ミナクルの交差点でランナー集団を追い抜いて、市役所近くのエニタイムにゼッケンをつけたまま飛び込んだ。ここでシャワーを浴びリフレッシュするのが当初からの計画だ。靴下を脱ぐと足がひどいことになっている。シャワーを浴びると股の痛みがひどい。股ズレの位置はやはりパンツの縫い目に集中していて、3年ほど使ったミレーの高級パンツも流石にそろそろ寿命なのだろう。それでも体の汚れを洗い流し、下着だけでも着替えると気分も変わる。休憩に使った時間はおよそ15分。市街地で抜き去った集団に追いつこうと頑張るが、結局その姿をとらえることはできずに国分寺の最終エイドに入る。肉うどんが旨すぎる。十年に住んでいたときは無かったと思う博物館が出来ていて、なんかこれはこれで面白そうだ。来月は中能登トレジャートレイルでまた来るし、その時に見学してみよう。

 七尾市から鹿島郡中能登町、羽咋市、宝達志水町を経て、かほく市に至る邑知潟断層帯。その真上を走る羽咋市飯山CPまでの19キロが最後の頑張りどころ。綺麗な舗装路なのをいいことに必死で走る。数キロ走るとようやく彼方にランナーが見え始める。彼らを食おうとペースを上げ、キロ6分台も出始めた。アルプラザ鹿島の辺りで最後尾に追いつき、1人また1人と追い抜いていく。その中でも全然距離が縮まらないのが被り物をかぶったランナーで、思い返せば門前のあたりから順位を前後している人だ。ようやく追いついたのが中能登と羽咋の境目あたりで、勢いよくようやく抜き去るとそこで何か力がプツンと途切れてしまった。ロングスパートをかける中で左足かかとにも大きなマメができていて、狭い凸凹した道はもう走れなくなっていた。喉が渇いているけれども、自販機を全然見つけられなくて、峨山道の起点である曹洞宗永光寺の門前あたりで結局追い付かれ、ようやく見つけた自販機で止まっているうちに追い抜かれてしまった。

 最後のCPである飯山の交差点を過ぎるとゴールまで残り5km 。時刻から考えるとキロ8分を維持できれば22時間以内にゴールできる計算になる。もともとはただ完走できればそれでいいと思っていたのだが、序盤に言葉を交わしたランナーが22時間切りを目標にしていたのを思い出してしまった。他のランナーが最終章の余韻を楽しんでいるのを傍目にできる限りペースを上げて走る。昔通った高校の前を通過。よく知ってる道だからこそ道路のどちら側を走ればいいのかイメージがしやすくて、最短でゴールを目指せる位置取りを心がけた。そんな中、飯山の交差点で挨拶した2人のランナーが付いてきていて、3人でゴールを目指そうと引っ張った。

 最後の交差点をノンストップで通過し残り3分。これはかなり際どいラインで、本当に最後のラストスパートはキロ5分台。2人の仲間を置き去りにして、残り1分というところでゴールテープを切った。独自の記録方式は通信が若干遅くてやきもきしたものの、なんとか打刻を終えて21時間59分の記録を残すことができた。大会主催者にろくな感想や感謝の気持ちを言うこともできず疲れ切った体を引きずり、ジュースをもらって椅子に座り、置いてきた2人のゴールを待った。ようやくゆっくり話せる時間が出来て、それぞれがジャーニーランの愛好家で各地に出没していることなどを話した。

 近くの温泉施設に行くこともできたが、その後の睡魔を考えると実家に帰った方が何かと都合がいい。10分ほどの休憩をはさんで志賀町に帰った。肌の痛みは相当なもので、靴下を脱ぐと歩くのもままならない。雨の大会の怖さを久しぶりに痛感した。以降、寝て食べて寝て食べて寝て、起きたら会社の時間が迫っていた。

 大会のダメージは2日も経つとだいぶ軽減されて、もうそろそろジョギングは再開できるだろう。LAKE BIWAに落選したから申し込んだイベントではあったけれど、体の調子を考えると今年はこれぐらいの負荷がちょうど良かったと思えるようになった。そうか、来年はLB100があるから参加できないなと思うと、それはそれでちょっと寂しい。

投稿者 DiSpa.